Classroom Mag:都市生活と自然の関係

Classroom Mag:都市生活と自然のつながり

今日、テクノロジーの時代は高まり続けており、現代の世界はさまざまな国で明白になっています。現在、ほとんどの人間は高層ビルの周りにいて、一日中ガジェットに埋もれていることに慣れています。 

技術の時代が到来していることは否定できません。それは障壁を打ち破り、日々革新を続けています。ガジェットやインターネットの利用は、おそらく今日最大の市場であり、誰もが最新のモデルを望んでいます。 

しかし、これは人間が自分のルーツ、または物事の自然な側面との接触を失っていることを意味します。高度に都市化された都市では、木や草地を見ることはめったにありません。光害のために星を見ることはまれであるため、人々はそれらを寝室に人工的に投影することに頼っています。 

これらの要因やその他の多くの要因は、人間が自然や田舎の生活形態に触れていないことを証明しています。一方、都市生活と自然との関係については、次のセクションで詳しく知ることができます。 

人間は自然の中で生き残るための生物学的装備を備えてい
ます。時間の夜明け以来、人間は周囲の自然と一緒に暮らすことに慣れてきました。彼らは日陰を木に、食物を動物に頼っていました。最近も同じ状況です。高度に都市化された社会に住む人々と農村地域に住む人々の生活の質を比較した研究があります。 

予想通り、都市化地域に住む人々は、汚染によって引き起こされる特定の病気に苦しむ可能性が高くなります。メンタルヘルスの問題の数に関しても、彼らはより高い数を持っています。 

一方、バランスの取れたコミュニティや農村地域に住む人々は、よりよく繁栄する傾向があります。これは、人間が自然界で生き残るために生物学的に備えられていることを証明しているにすぎません。 

非常に多くの技術的進歩の周りにいることはエキサイティングに思えるかもしれませんが、人々は依然として自然環境にいる必要があります。そのため、自然の部分を保護し、市内に樹木や草地が豊富にあることが非常に重要です。 

都市生活の中で生活することは、精神的および感情的な緊張を引き起こす可能性があります
先に述べたように、人間は自然の周りにいると自然に繁栄します。誰かがオフィスのキュービクルに閉じ込められて多くの時間を過ごし、窓のない小さなアパートに住んでいる場合、これは精神的および感情的な緊張に寄与する可能性があります。 

この状況は、可能な限り少ない準備でケージに住むことを余儀なくされている野生動物に似ていると考えることができます。 

年に一度、あるいはそれより少ない頻度で、休暇に行く手段を持っている人々は少し逃げるのが好きです。これは通常、ビーチや山などのある場所を訪れることを意味します。これらの場所は、ただリラックスする時間をとるという考えに組み込まれています。 

実際には、適切な環境にいれば、毎日が休暇のように感じることがあります。鳥のさえずりと葉が風にざわめく音に目覚めることを想像してみてください。車の鳴き声、煙の匂い、窓の外にある高層ビルの眺めに囲まれているのと比べると、大きな変化です。それは必ずしもリラックスした経験ではありません。 

世界は変化していますが、バランスをとる必要があります
世界が現代に適応していることは否定できません。加えられた変更を元に戻すことは不可能かもしれませんが、人間はそれでもそのバランスを見つけることができます。 

工業化のプロセスもこれに大きな役割を果たします。人口の多い建物や家のある場所に住む代わりに、街のすぐ外にある静かな場所を見つけることは大きな違いを生む可能性があります。 

高層ビルやマンションを建てる代わりに、公園に変えてみませんか?今日の人々は彼らのビジネスを促進し、お金を稼ぐことに非常に熱心であるため、彼らはもはや自然な結果を考慮していません。 

これが続けば、人類はジレンマに陥るでしょう。いつでも材料を手に入れて構造物を作ることができますが、自然には限界があります。伐採する木や購入する土地がなくなる日が来ると、どうなるでしょうか。状況が元に戻せなくなるのを待つよりも、今すぐ行動を起こす方がよいでしょう。 

自然を都市生活に取り入れる方法いる

人間が自然との触れ合いを失ってこのような困難な時代に、自然を日常生活に取り戻すために変化を起こす時が来ました。どんなに小さくても自分の役割を果たし、人生のストレスを軽減するためのステップを踏むことができます。自然を都市生活に取り入れるためにできることのいくつかをチェックしてください: 

あなたの個人的なスペースにいくつかの植物を追加してください
あなたの家が少しくすんだまたは平野に見えるように感じるならば、あなたは植物でそれを整えることができます。小さな環境でも生き残ることができるメンテナンスの少ない植物を選ぶのは簡単です!あなたは単に彼らに十分な日光を与え、少なくとも1日1回彼らに水を与える必要があります。 

あなたのスペースを明るくすることに加えて、それはまたあなたの家の酸素の流れを増やします。これは、スペースをまとめたように見せるための簡単な方法です。さらに、選択できるオプションがたくさんあります! 

あなたがそれらのくすんだ角を埋めるために使うことができるいくつかのより高い鉢植えの植物があります、あるいはスペースを節約するために天井からいくつかの植物を吊るすかもしれません。窓辺に収まる小さな鉢植えの植物を使用することも、最近人気があります。 

特定の原因と問題を促進するイニシアチブをサポートする
地球に住む人間であるあなたの仕事は、あなたの家のことを気にすることです。それを保護し、それのために戦うことを恐れないでください。機会があれば、重要な原因や問題を促進するイニシアチブをサポートします。 

より多くの人々がそれについて知っているとき、それを修正するために何かが行われる可能性が高くなります。あなたは必ずしもこれらの原因にあなたの時間と努力のすべてを捧げる必要はありません。 

ソーシャルメディアで投稿を共有したり、フォームに署名したりして、特定の目的に対するサポートを示すなどの簡単なことを行うことができます。これらの行為は単純ですが、環境を促進するのに効果的です。 

育てる 裏庭で自分の食べ物を
家の後ろに裏庭や数メートルの土地がある場合は、自分の野菜を植えることで緑になります!これはあなたの家庭にとって簡単で便利です。市場から種や果物を購入し、地面に植えるだけです。 

十分な水と日光を与えてください、そしてあなたがそれを知る前に、あなたはあなた自身の有機的な庭を持っているでしょう。これはあなたがたくさんのお金を節約し、あなた自身の家から直接生鮮食品にアクセスするのを助けるでしょう!生分解性のものも肥料や堆肥として使えます! 

有機製品を選ぶ
自分で食べ物を植えて収穫することができない場合は、いつでもスーパーマーケットのオプションに頼ることができます。幸いなことに、最近では有機食品やグルテンフリー製品が大流行しているので、かなり多くの選択肢があるはずです。有機食品や飲み物を摂取することはより健康的であり、環境にも貢献します。 

世界中の環境問題について自分自身を教育する
自然を日常生活に取り入れるために多くのことができない場合、最善の方法は常に最新の状態を保つことです。世界中の現在の環境問題について教育を受け、学ぶことほど強力なものはありません。 

インターネットを活用して、気候変動、森林破壊、汚染などの問題について最新情報を入手してください。あなたが世界の現在の出来事について十分な知識を持っているなら、あなたはそれについて何かをするより多くの力を持っています。 

家庭で天然資源を活用する家庭で
天然資源を活用するためにできることはたくさんあります。あなたはあなたが持っている自然光を利用することから始めることができます。 

日中は、必ずカーテンを開けて、家に光を入れてください。新鮮な空気を楽しんだり、電気を節約したりできます!そうすれば、毎日数時間だけライトをオンにする必要があります。

環境にやさしい製品を購入
する日常生活に自然を加えるためにできるもう1つのことは、環境にやさしい製品を購入することです。食料品店に行くときは、プラスチックや紙の袋を使用する代わりに、自分の再利用可能な袋を持参してください。 

毎日食事を購入したり、テイクアウトしたりする場合は、独自の材料またはお弁当を使用して、サーバーに食べ物を置いてもらいます。金属製または木製のストローを手に入れて、どこにでも持ち運べます。 

これは、廃棄物を削減し、より持続可能な製品の使用を促進するのに役立ちます。これらは、環境に配慮し、自然を日常生活に取り入れるためにできることのほんの一部です。 

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台北滞在記

4日ほど台北にいた。
行きの飛行機で『人魚の眠る家』という映画を見た。事故で脳死状態になった5歳の娘を在宅看護する家族の物語。意思で動くことのない娘の筋肉に電気信号を流し、手足を動かして筋肉量を維持し、健康状態を保っていた。母親は徐々に娘の体をうまく操作できるようになり、足を持ち上げる下ろす程度だった動作が、やがてプレゼントを両手で受け取り、口角を上げて微笑む、くらいまで操れるようになってしまった。けれど家族や友人は、脳死したはずの娘の体が動かされることをどこか気味悪く感じていた。それは「もう死んでいるはずの体を動かす」ことへの不気味さである。けれど娘の心臓は動いている。
いつしか母親と周囲の人々との思いの溝は深まり、不和が生じていた。母親はついに次男の誕生日の席で、娘に包丁を突きつけて警察を呼んだ。皆がもう死んでいると思っているこの子を殺したら、殺人になるかと問う。罪になるなら喜んで刑に服する、なぜならこの子を殺して殺人になるならば、皆は娘が生きていると認めたことになるからだと叫んだ。

映画一本見終わってちょうど台北に着いた。旅はいつも自分よりしっかりした誰かしらの道案内に任せて好き勝手きょろきょろしているけれど、今回台北もひとりで海外の空港に降り立ったのも初めてで、電車の乗り場など、必要なものばかり探さなければならない。台北は地下鉄が発達していて、チャージ式のカードを買って移動するのが便利と予習済みだった。500元でカードを買う。プラットホームは「月台」と表示されていて、詩的だ。
着いたのが遅かったので、この日はホテルの周辺を少し散策する程度だった。ファミリーマートとセブンイレブンがやたらあるけれど商品は違って、特にファミマは八角の匂いがする。まず台北を印象付けるのはそこかしこに漂うこの匂い。ホテルのタオルもじっくり嗅ぐと繊維の奥に八角の残香がある。
翌日、台湾式朝ごはんを食べに出かけた。豆漿という豆乳スープに揚げパンを添えたものが代表的な朝食らしい。あとはねぎ入りの台湾風パイ、小籠包。豆漿はしばらくするとおぼろ豆腐状に固まってきて、スープだと思ってなめていたら案外お腹に溜まる。注文したものを全部食べたら苦しくなった。腹ごなしに歩きつつ、近くの台北市美術館に行くことにした。
日韓中の女性の抽象画を集めた展覧会がやっていた。日本からは草間彌生、田中敦子など。石川順惠の絵を初めて見た。線描が重なって構成されるレイヤーの画面は、平面を一つの空間として安定させない。見ていると感覚的に動かされる。張相宜の韓国の伝統的な五色を使った抽象、薛保瑕のポロックやいくつかの過去の画家の技法を複合して描かれた大作など、見応えのある作品が多かった。他には池田亮司の個展、台湾の若手アーティストの個展も5つくらいやっていて、3時間くらい過ごせる。ものすごいボリューム感なのにチケットが30元、約100円くらいだったことが何より驚きだった。
朝ごはんに張り切りすぎたせいでいつまで経ってもお腹が空かない。ミルクティーの中のタピオカさえ胃を圧迫する。街を見て歩く。この国の人はバルコニーで植物を育てるのがとても上手で、基本上を見上げて歩いていた。
夕方5時過ぎ頃から夜市という屋台が出始める。名前のわからない丸、三角、平たいもの、煮詰まった茶色いものからおいしそうなにおいがしてくる。ようやく次のものが食べられる隙間のできた胃に、おばちゃんが白玉団子みたいな餅のかたまりを一個一個手でちぎって丸めてピーナッツの粉を入れてまぶしてくれる団子がおいしかった。

夜、台北の水源劇場でチョイ・カファイの『存在の耐えられない暗黒』というダンス作品を見た。モーションキャプチャの装置を付けたダンサーが背後にプロジェクションされる舞踏の創始者、土方巽のアバターを踊らせる。行きの飛行機で見た映画がふとよぎった。意味は異なるがこちらも「もう死んでいるはずの体を動かす」ということをやっている。けれどこの場合、アバターの土方巽があたかも生きているように降臨、というふうには見えないし、もちろんそれが意図ではない。ダンサーはアバター土方を動かす役として舞台上にいるけれど、動くときにアバターとダンサーどちらを見るかと言えば、ダンサーに目がいく。
ダンサーは過去の土方の振付をトレースし、アバター土方はその動きを受けて動く。空っぽの体が意思の外で動かされている状態は舞踏的な身体に親和しそうだけれど、アバター土方が踊る姿に迫ってくるものはほぼない。けれどこの作品は体なき今、個に宿っていた踊りは再現不可能であると結論付けたいのでもない。
ダンサーに土方が憑るということは、振付を介してダンサーのフィジカルな感覚の上では起こっていただろう。このコンセプトを実現することで、どういう身体の創出が目指されているのかが私にとって気になるところだった。作品自体にはきっといろんな批評の余地があって、舞踏や土方への思い入れの強い人、そうでもない人の間でも意見は分かれるだろう。けれど舞踏と呼ばれるものに斬り込む際どいユニークさに、日本の外から見た視線によるすがすがしさも感じた。
作品の根底には、作家自身が多大な影響を受けた土方巽へのリスペクトがあるという。作家が土方の舞踏の何に魅せられ、動きを再現するコンセプトからどのような踊りの展望を見出したのか、そのことをもう少し作品から受け取りたいと思った。
この日の夜に食べた劇場の近くの食堂のトウモロコシと骨つき肉のスープは特別おいしかった。

別のレジデンスプログラムで台北に滞在していた演出家の篠田千明と会った。私が着いたその日にレジデンスのプレゼンは終わっていたが、チョイ・カファイの上演を同じ日に見ていたので劇場で遭遇した。滞在中に出会った人たちとお別れカラオケをするから来ないか、という誘いをもらって次の日の夕方、龍山寺前の公園で会う約束をした。
龍山寺は台北最古の寺院で、「地球の歩き方」にはこのエリアは台北の巣鴨と書かれていた。実際行ってみると駅前の雰囲気は西成に近かった。駅前の公園にはしっかりしたアーケードがあって雨風をしのげるようになっている。
この日は午後から雨だった。龍山寺駅には地下街があって、占いの店とマッサージ店が多い。喫茶店などもある。小雨になるのをこの地下街をうろつきながら待った。時々しか繋がらないWi-Fiで篠田さんとなかなか連絡が取れず、公園と言っても広いのでどこにいるのかわからない。すでに約束の時間から40分経過して、若干帰ろうかと思い始めていた。待っている間にお腹が空いて、近くのパン屋で見たことないパンをあえて選んで買ってみたが、よく知っているメロンパンの味がした。瞬時つながったWi-Fiで反対側にいることがわかり、ようやく会えた。
すでにカラオケは始まっていた。歌う人はワイヤレスマイクを持ち、音源は篠田さんのスマホから、画用紙に数十曲の中国語歌詞が貼ってあり、それをめくりながら歌う。篠田さんは滞在中このカラオケセットを携えてここに通い、公園で暮らす人たちと顔見知になったらしい。おっちゃんとおばちゃんの輪の中で空いていた風呂の椅子をすすめられ私もそこに座る。公園の中にもテリトリーがあるらしい。歌っているのを聞きつけて歌いに来るおっちゃんもいる。
私の向かいに座っているおっちゃんが、しきりにそばに置いてある缶の中に茶色い唾を吐いている。何か病気なのかと思っていたら、噛みタバコのビンロウのアクを吐いているのだった。缶の中にはもう相当な量が溜まっている。篠田さんは自分のタバコとおっちゃんのビンロウを一個交換してもらい、噛みながらおっちゃんの缶に唾を吐くけれど、だいたい缶の外に飛散していた。吐くのもコツがいるらしい。篠田さんはショートパンツの素足で地面に膝をついている。脚には点々と蚊に刺された跡がある。液晶の割れたスマホもその辺に投げ出されている。この人はインディヴィジュアルだけど恐ろしく境界がない。この公園に異物のまま浸透している。アーティスト的媚態でも擬態でも慈善活動でもない。海外からやってきたアーティストがここで何かを創作したというより、そもそもずっとあった場所やそこにいた人たちが、彼女が来たことで浮かび上がって見えているという感じがする。

歌詞カードの中で私にもかろうじて歌える歌はテレサ・テンの「時の流れに身を任せ」と氷川きよしの「箱根八里の半次郎」だった。おっちゃんが中国語で歌うテレサ・テンと日本語で一緒に歌った。おっちゃんたちは仕事で朝早いので、8時前には寝床の準備を始める。
公園を後にしてひとりで地下鉄に乗りながら、さっきまでの出来事を反芻していた。
私は今回、特に仕事ではなく観光客として台北に来ていた。観光客は訪れた街のここを見よ、あれを買え、これを食べよ、というガイドブックやネットのナビゲーションのもと動き、街にお金を落としていく。私も100元あれば食べられる国で観光客しかいない茶館に行き、1000元の中国茶を飲んだりもした。観光客にはそういうことが求められているだろうし、来る方もそうやって異国の旅を味わおうとする。それも悪くない。でも観光には予定調和的鮮度というか、初めての場所や未知のものに思いを馳せつつ、結局のところ事前に得た情報をなぞって満足しているような虚しさがつきまとう。
今回出会った公園のおっちゃんたちは観光客である私と最も遠かった人たちのように思えた。台北に来てもお互いに接点の持ちようがなかったはずだけれど、あのとき特に理由なく歌っていた。
「もしもあなたと逢えずにいたら わたしは何を してたでしょうか」
一緒に歌うはずがなかった人たちとテレサ・テン。
起こるはずがない、出会うはずがなかった人たちと交差した時間が何より静かに劇的に残った。