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Interview 1/2

吉本有輝子・舞台照明デザイナー〈前編〉

Yukiko Yoshimoto | lighting designer

京都を拠点に国内外で活躍するフリーランス舞台照明デザイナーの吉本さんに「照明をつくる仕事」についてお話を伺うロングインタビュー、前編。

説明しづらい仕事

— はじめに普段のお仕事について教えてください。

難しい質問ですね。「演劇やダンスの舞台の照明のデザインをしています」というと大抵の人は反射的に「あぁ凄いですね」って言うんです。
でも、その人がイメージしているのとは少し離れたマイナーな分野なので、それを説明するのが大変なんです。「(劇団)四季とかですか?」って言われるんですが、もうちょっと一般的には知られていないようなものが多いです。
普段の実際の作業としては、作品について打ち合わせをして、稽古を見て、照明デザインを考えて図面を書いて、劇場で本番に向けて照明を作るというようなことをやっています。

— その中でも比較的わかりやすいというと?

今までだと平田オリザさんの作品。あと山海塾は大昔CMに出ていたりしたので、年代が少し上の人達なら知る人ぞ知るという感じかなぁ。あと維新派は公演情報が新聞などのメディアに出る機会が多いからなんとなく聞いたことあるという人はいると思います。アート系のメディアに出る機会が多いのは、最近ではダムタイプの高谷史郎さんの作品などです。
先週は横浜で私と同じ身長の福留麻里さんという方の演出のダンス公演をしてきてきました。とても楽しかったです、笑。

福留麻里『動きの幽霊』@ST spot photo:Kazuyuki Matsumoto
福留麻里『動きの幽霊』@ST spot photo:Kazuyuki Matsumoto

— 演劇とダンスの割合はどのくらいですか?

どちらともいえないものが多いです。イメージしやすい「普通の演劇」や「普通のダンス」じゃないものって意外に多くて、なんかよくわからないものが多い。なんとも説明しがたい。例えば維新派を観たことない人には説明するのが難しいよね。白塗りの子供の格好をした人たちが40人くらい屋外で走り回っているようなパフォーマンスです、って。

— ああ確かに難しい。この辺りに画像を貼りましょう。

維新派『トワイライト』構成・演出 松本雄吉 @奈良県曽爾村健民運動場 photo:Yoshikazu Inoue
維新派『トワイライト』構成・演出 松本雄吉 @奈良県曽爾村健民運動場 photo:Yoshikazu Inoue
維新派『トワイライト』構成・演出 松本雄吉 @奈良県曽爾村健民運動場 photo:Yoshikazu Inoue
維新派『トワイライト』構成・演出 松本雄吉 @奈良県曽爾村健民運動場 photo:Yoshikazu Inoue

人は人、自分は自分と考えられる距離感に暮らす

— ずっと京都にお住まいですが、関西に拠点を持つカンパニーとのお仕事が多いですか?

いえ、東京に拠点があるカンパニーと半々くらいで、地方などの公演もあるので一年のうち半分くらいは京都以外にいます。

— 京都に住んでいる理由って何かあるのでしょうか?

自分のペースを保てる…東京って劇場もたくさんあって、舞台文化の中心だから舞台関係の人の全員が基本的にはすごく忙しい。流行り廃りが激しくて、流行ったところにお金がすぐ集中するし、青田買いも激しいし。多分、アート業界の他のジャンルも一緒だと思うけど。京都ってそこからは時差があって、みんな少しぼんやりしてると思うんですよ、売れることや認められるということに対して。

— 流行り廃りが激しくない分、自分のペースでものづくりに取り組める?

そうそう、よく言えばね。
悪く言えば、ものすごいアマちゃんで、ずっとアマチュアみたいな人も実際に多いし、そうやって生きていっても許される。そして京都は学生が多いから、30代半ばになっても学生に見えるような人も街に紛れてのんびり暮らせるようなところがある。
東京の舞台業界はメディアと繋がっているから経済が回りやすい。わかりやすく言えば、東京の俳優で、ある程度コンスタントにある程度の規模の舞台に出てる人はほぼ全員事務所に所属していて、舞台に出るのに並行してCMや映画、テレビのオーディションを受けるという俳優業が当たり前になっているし、実際にテレビとか映画とかにそういう人がいっぱい出てる。でも関西には大きな規模でそういう土壌がないから、半分バイトしたりしながら、のんびり長いスパンで活動している人が多いかもしれないです。良くも悪くもね。その時間や経済の流れ方の良い部分と悪い部分があると思います。私自身も、東京にいると無意識のうちに忙しい気持ちになるし、もっとなんかがんばらないといけないというような気持ちになる。京都にいると、そういう部分と距離を置いたり、自分が大切にしたいものについてぼんやり考えたりする時間や感覚が持てる。人は人、自分は自分と考えられることがとても良いです。
東京にいたら当たり前に東京中心主義になるんですよ。それこそムーンライダーズの「東京一は日本一」っていう。でも本当にそれはそうで、一番お金は回っているし、関わっている人や観客も圧倒的に多いし。京都にいると、東京を都市のひとつとしてそれぞれの大阪、東京、その他、特徴を持った一つの文化圏としてみれるとか、東京もパリもニューヨークも等間隔に都市としてみてみるとか、ちょっと違う距離の持ち方というのが文化的なことに関してできるというのはあるような気がします。
あと、京都は少し特殊な文化都市で、地方都市にしては異常に大学や芸大が多かったり、伝統芸能が強く存在し続けていたり、芸術に関わる人たちに甘いようなところもあって、そういう独特な感じが我々のように万年大学生のような人には住みやすいです。いろんなことに対する距離感が良いんです。
あとね、鴨川が好きだから、鴨川で散歩をするために京都にいます。

鴨川を散歩する時間を大切にしているという
鴨川を散歩する時間を大切にしているという

繋がりが繋がりを呼んでプロになる

— ところで、どうして照明家の道を選んだのですか。

高校のクラブ活動で演劇をやってました。でもまぁ高校時代はいろんな文化的なことをしていました、絵を描いたり文章を書いたり。時間があった。
高校の時は照明も演出も俳優もやってました。でも俳優には向いてなかったかな。俳優ってやっぱり大変な作業で。見た目のすべて、声、リズム感など全人的なことが評価される凄く過酷な仕事で、その分楽しさも大きいのかもしれないけれど、これは大変だって高校生の時に気付きました。
演出家は誰にも見えないことを実現したいという強い欲望、気狂いじみた何か見たいもの、或いは見たいものを発見したいという強い欲望がある人がなるのかな。その強い欲望は自分にはなくて、自分は目の前にあるものをもう一歩遠くに進めるとか、具体的に工夫するとかそういうことは得意で、或いは他人の何かを引き出すとか、スタッフ的な作業に向いているというのは大学生の時に自覚しました。
照明になんでなったか? それは第三劇場っていう(同志社大学の)学生劇団があるんですけど、そこでスタッフを募集していて、たまたま照明を選びました。

— たまたまでしたか。

ええ、たまたま。でも小さい頃から絵を描いていたり、見ることやビジュアル的なことは以前から好きで。

— でもどこかで一生これでやって行こうと思ったんですね。

最近ですよ、一生やっていくのかな、やっていくか、みたいに思ったの。

— 照明に向いてるとは思っていた?

それは始めた頃から向いているとは思ってました。学生の頃からしばらくは今よりずっと傲慢でしたから、「私は照明、超得意だな」とぐらい思ってましたよ。当時は見えている世界が狭かったから、村相撲で一番みたいなもの。恥ずかしいです。でもそれくらい勝気だったと思う、笑。今はそういうことは思ってないです。本当につい最近、あと20年これをやろう、と自覚して、シャッキリした気持ちになったの。

— 学生劇団からスタートして、どのようにプロになっていたのでしょうか。

大学卒業して20代は照明デザインで食べてたわけじゃなくて、いろんな照明のバイトしたりしてね、アマチュアでした。
まだレジデンスという言葉が身近でなかった95年頃に「芸術祭典・京」っていう企画で、初めて平田オリザさんが京都に滞在して作るっていう公演があって。当時25,6歳くらいの私はアートスペース無門館(現、アトリエ劇研)という小劇場のスタッフをしていて、その劇場プロデューサーが平田さんの演出作品のプロデューサーで、照明に指名されました。それが初めての公的な企画の仕事です。山海塾は当時、知ってる先輩が照明をしていて、オペレーターを引き継ぐ人を探していた時、たまたま自分が身近にいたんです。維新派の場合は「踊りに行くぜ!!」っていう今でも続いているダンスの企画があって、その大阪公演で照明を担当したんですが、その時の舞台監督が維新派の人でした。その一回一緒にやっただけだったけど、ちょうど照明の人を探しているタイミングだったのでスカウトされて今に至ります。

— すごい、維新派はそれからずっとなんですね。もう何年くらいになりますか。

途中してない公演もありますよ。始めたのが2002年だから、ちょうどひと回りくらい、始めた頃は30代はじめでした。
あとね、京都芸術センターができたり、京都芸術劇場(京都造形大学内)ができたりして、東京の人が京都に来て滞在制作することが増えてきた時期だったの。その繋がりで今も、例えば白井(剛)さんは最初に京都に来た時に照明をやって、それから東京の公演でも時々照明を依頼されるようになったり、(伊藤)キムさんもそうだし、ダンス関係はそれで繋がっている人が多い。カンパニーデラシネラの小野寺(修二)さんからは、神戸でプロデュース公演があった時に共通の知人が何人かいて「前から吉本さんて名前だけ聞いててお願いしたかった」って呼んでもらって、それからは何かと東京でするときも声をかけてもらったりとか。繋がりが繋がりを呼んで、いつの間にかこうなっていたという感じです。

— その中でも特に転機となったのは。

大学を卒業するときに、周りに一緒にやる仲間や身近に面白い先輩劇団が沢山あって照明をできる環境があったことが一つ。
それからさっき話した平田オリザさんとの仕事が大きな転機になりました。それまでもセミプロ劇団との仕事はあったんですが、自分が責任のある立場で小劇場より大きい劇場に行くのはそれが初めてでした。その作品はとても刺激的だったし、その年の読売演劇大賞の最優秀作品賞を取ったりして、すごく認められました。それで自分が今まで試行錯誤してやってることはそれなりに通用するんだと確信を持ったのと、昼から集中して稽古をして休憩するみたいな当たり前のこと、仕事として集中して作品を作るという態度を始めて学びました。それまでは夕方から稽古して作品を作るのが楽しいのか、集まっているのが楽しいのかがわからないようなモヤモヤした青春の時期があったから。その感覚は好きだし今でも基本的に大切にしてるけどね。あと山海塾の海外公演にオペレーター として行くようになったのも同じ27,8の頃で、ちゃんと大人の人と継続して責任を持って仕事をするようになったっていう意味で大きな転機になりました。

NISSAY OPERA 2015 オペラ『ドン・ジョヴァンニ』@日生劇場 photo:Chikashi Saegusa
NISSAY OPERA 2015 オペラ『ドン・ジョヴァンニ』@日生劇場 photo:Chikashi Saegusa

第2の転機、作り続けていくために必要なこと

— その後、海外に渡られましたね。何歳の時でしたか。

在研(文化庁の芸術分野海外研修サポートプロジェクト)で1年間フランスに行ったのは30代半ばですね。飽きるんですよ10年くらいやってると。

— 仕事が順調な時期に日本を離れる不安はありませんでしたか。

その当時は仕事が物凄く忙しくて、第一次忙しいピークみたいになってたんですよ。かつ仕事の規模が大きいものから小さいものまで幅があって、小さいものの数が多くて月に何本も本番をやるから、さすがに消耗して、飽きてくるし。自分はあと10年これをやり続けるのかと思って、無理無理一回休もうって。でも休むって言っても、フリーランスの立場で仕事を断るって何か理由がないと断わりにくいんですよ。だから「わたし在研に受かったら行きますから、1年先の仕事は受けれません」って口実にして断るという、笑。
ここで仕事を断る勇気を持たないと、本当にこの先もずっとこのままだと思って、それは続かない、しんどいと。一回リセットしてサバティカル(長期休暇)みたいなことを自分でやらないといけないなというのを30代の半ばに思ったの。あと在研って、受け入れ先が決まってないと申請ができなくて、たまたま山海塾で懇意にしている劇場がパリにあってそこが受け入れ先になってくれた。そういうチャンスがないとなかなか難しいから、もうこの機会に!という感じで。あれは良かったな、人生の休暇だった。

— 現地ではどんな生活だったのですか。

在研では基本的には受け入れ先の劇場に通っていました。技術的にはそんな学ぶことはないんですけど、演出家やデザイナー、他の人達がどんな風に作品を作るのかを見ることが凄く勉強になりました。キャリアを積むと段々自分の現場が忙しくなって、若い時のように他の人の現場の手伝いに入る機会が少なくなってくるんです。在研の時は立場は劇場のスタッフだから、どのように本番を立ち上げていくのか作業とかやり取りとかをずっと見てられるというのは凄い良くて。日本じゃないこともあって、作品作りにおける価値観の幅も大きくて勉強になりました。
あと、なんてったってサバティカルだから、修行のように舞台を観るっていう、笑。修行のようにとにかく舞台を観る時期っていうのは必要じゃないかなと思っています。好き嫌い言わずとにかく観ると。劇場スタッフとして作品作りを見ることと、言葉のわからない演劇とかダンスとかを修行のように観るということで一年を過ごしました。その間に何度か、フランスの知り合いのデザイナーのアシスタントをしたりです。
在研から戻ってから以降かな、自分の照明デザインだけで食べていけるようになったのは。在研は50歳くらいにもう一回行きたいです。次に行くのはアジアとか東欧など、いわゆる文化的中心都市以外の地域がいいなと思っています。

— 舞台業界は30代で辞める方が多いと聞いたのですが、仕事を続けていくのに必要なことってなんだと思いますか。

それは根性論みたいになるけど…私が20代後半の時、平田オリザさんと20代後半から30代の俳優たちとが集まる飲みの席で、演劇を続けていくには、という話題になったことがあるんですよ。その時にオリザさんが「やっぱり演劇が一番じゃないと続けられないよね、なんだかんだ言って」って言ってて、それはひとつ真実なんじゃないかなと、どっかで思っているところがあります。やっぱり収入とか、或いは安定した私生活とかということを基準に考えると、この舞台関係って収入も労働時間もかなり不安定だし、一般的な常識的な価値観で見て安定を重視すると、どっかで辞めるよね、っていう。その「どっか」っていうのは多くは30代半ばから後半なんだけど。それは子供を産み育てることを現実的に考えたときだったり、或いは親が病気をするということで生活の優先順位が変わったりだったりね。生活と舞台活動の両立の面でやはりいろいろ工夫したりしなくちゃいけない、ということはあると思う。あとは成長が頭打ちになる感覚があるかもしれない。成長が実感できている間は楽しいけど、それなりにやっていると、まあ、こんなもんかなという自分の相対的な立ち位置や実力もわかるようになる。その時に放っといても舞台のことを考えてしまうとか、別に誰に評価されなくても楽しさを見つけられるとか、色んな外的な基準に関係なく、自分のしていることが好きかどうか、自分なりの基準でやっていけるかどうかを、自分自身の中での位置付けをすることは必要かなとは思います。相対的な評価とか、褒められるからとか、或いは仲間がいるからみたいなことだけでは続けられないなとは思う。

— 吉本さんは照明が一番ということになりますか。

舞台がね、舞台のことが気になってしょうがない。一番かどうかはわからないけど、こんなに集中して考えられることが他にない。照明が、というわけではないかもしれません。
自分にとっては照明のデザインを考えることが、その作品を発見していくことになるから、ツール兼目的として両方が合致している。それは職業病なのかもしれないけど。生活の中でこれほど集中して人の妄想に付き合うことってないと思う、それはとても楽しいです。

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吉本有輝子(舞台照明デザイナー)
NPO劇研(NPO GEKKEN)の設立に参加、京都の小劇場アトリエ劇研の運営に携わる。
2005年度京都市芸術文化特別奨励者
2006年度1年間文化庁新進芸術家海外留学制度研修員としてパリ市立劇場で研修
暗闇から最初に立ち上がる光を発見すること、観ることについて根源から考えることを大切にしながら照明を作り続けている。

Text & Photo:Masae YAMADA

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