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Column/ 惑生探査記

水源

suigen

ものやひとになぜ愛着というものを感じるようになるのだろうか。
愛着は「わく」というけれど、わくというのは勇気がわく、疑問がわくなど、自ずと起こってくる心情をさすものだったり、水がわく、虫がわくなどの意図していないところからあるものがあらわれ出るさまをさすときにも当てられる。
愛着を「もつ」ともいうけれど、もつという語感にはそれを手に取る能動の動きが含まれている。愛着というものを考えるときに「わく」と「もつ」だったら、もつよりもさらに自ずと起こってくる動きとしてあらわすことのできる「わく」の方がしっくりくるように思う。愛着とはものであれ生きものであれ、ある対象にその他のものと区別された特別な親密さを抱くということで、ある程度の時間の経過のなかで醸造される。馴染むというのにも似ているけれど、馴染んだところからさらに手放しがたく親密に感じられるものを別個にそんなふうに呼び、それをできる限り大切にしようとする。
愛着は油田から石油がわいてくるのを見ているように外側に起こることではなく、わくという感覚を自分の内側に感じる。だとしたらまだ無記名の愛着の種や源泉のようなものがあらかじめ身の内にあるのだろうか。何かのきっかけでそれが芽を吹いたりふ化したり噴出したりするのだろうか。
けれど対象によって誘発される感覚であると考えると、自分以外の他者の存在に出くわすことによってしか出現しないものであり、やはり自分ひとりでは愛着のわく場所を掘り当てることができない。発見された水脈からわいた水が溜まっていく。水辺にはいろんなものが生息する。人生の先々にビジョンがはっきりあるわけではないけれど、水の溜まる広い場所を体のなかに持っていたいとは思うのだった。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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