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Column/ 惑生探査記

3月素描

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何かの拍子に体質が改善されて今年こそ、と期待してみるけれど、気温が上がるや花粉の飛散を感知する。

読んでいた小説に、妻に先立たれた男の独り身について、それは孤独ではなく寂寥であると書いていた。亡妻のかわりに人生の寂寥がひっそりと私の傍によりそうようになった、孤独は見すてられ、とりのこされていると感じるはげしい感情であるが、寂寥はかつて確実に存在したもの、生きられた記憶である、と。
最近ふと荒木経惟の写真のことを人と話していて、妻の陽子さんとの新婚旅行から死とその後を撮った代表的な写真集「センチメンタルな旅」のことを思い出していた。妻の死を経過した写真家の目によって死後の寂寥とはまだ縁遠い新婚旅行の写真さえ、初々しさとは違う濃淡を帯びて赤い装丁のなかに編みこまれている。平穏な日々も死の直前もまさにそのときもその後もシャッターは切られ続けた。写真家本人が写っていなくても、どこにいても何を見てもあるひとりの死の肩越しの世界にいるひとりの人間が写真から見えてくる。そういう喪失の状態を多かれ少なかれ何かを失った人はみな経験するものだけれど、それをそのままに写してしまう写真家の誠実と力に魅せられた。二十代のはじめにこの写真集を見て、はじめて結婚や夫婦というものはいいかも知れないと思った。なぜいいと思ったのか当時はわからなかったけれど、感傷とは違うその寂寥というものの醸造されるまでの日々に惹かれたのかも知れない。
つれあいはいちばん自分の心身の近くにあってほしいと思う相手であり、結婚するということは、死ぬまでそうであってほしいと願って、それを口にすること、周囲にそう宣言することである。つれあいの死は親や兄弟、友人の死とは何か違うものを残すのではないかと想像した。二十代のころ最初の結婚を決めたとき、失うことの寂寥を知らないまま生きるよりは知りたいと、そうすれば身をまかせるしかない加齢のそばで、別の能動をもって歳を重ねていけると思った。
喪失への欲深さは言うまでもなく失いたくないということに根差し、自分も相手も限りがあるそのうちに意味を求めるよりは、とにかく欲するところをまっとうしようとする生への貪欲と表裏一体になっている。

レイトショーの映画を見に冬物より一段薄手のコートで外に出たらちょっと寒かった。街かどでベーシストがJust the Two of Usを弾いていた。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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