寄稿 寄稿

Column / 惑生探査記

ばらに憑かれて1

ばらに憑かれて1
ばらは人に憑く。ばらに憑かれると人はどうなるか。朝、ゴミを出しにいって玄関先のばらの鉢の前でパジャマのまま立ち尽くし、乗る予定の電車に遅れる。夕方、帰って来てもスーパーの袋からごぼうやねぎをはみ出させたまま玄関先に立ち尽くしている。4月半ばを過ぎた頃から次々と膨らむ蕾と共に、頭の中の30%くらいはばらのことに占められるようになる。
ばらの苗を初めて買ったのは4年前。それまでは大して惹かれる花という訳でもなかった。テキスタイルに雑貨、化粧品、芳香剤、ばらは既にイメージとしてありふれ過ぎていて、もう知っていると思い込んでいた。けれど芳香植物に興味を持ち、満開のばら園で何百種とあるのを目の前にして嗅いだときに、ばらをもう知っているという認識は覆された。ばらといっても本当にいろんな色と咲き方、そして香りがある。その上咲き始めから花の終わるまでのあいだに色も香りも移ろう。生きたばらのことを知るには育てて傍で常々見るしかないと思った。
ばらの品種は2万以上あると言われている。園芸店で手に入るものとなると限られてくるけれど、それでも数百の選択肢の中からどの品種と出会うかというのは運命のようなもので、そういう出会いを最初に果たしたのはディオレサンスというばらだった。ばら図鑑で見ていいなと思っていたところ、たまたま近くの園芸店で苗を見つけた。数百円の草花しか買ったことのなかった者にとって、4000円の植木に手を出すのはちょっとした跳躍だった。
ディオレサンスという名はクリスチャン・ディオールの香水からきている。1984年フランスで作られた強く芳香する品種だけれど、芳香剤などで強調される優雅なイメージのばらよりもずっと柑橘系のシャープさが際だっていて、そこにゼラニウムや苔のようなやや湿った緑の印象が混ざる。花は蕾のときは赤紫で、咲き始めるとその色は徐々に薄まり、花びらの裏や先端に余韻を残しながら先進むほどに赤みは抜けて、モーブからラベンダー、グレイのトーンに変わっていく。2輪ほど花瓶に挿しておくと、夜のあいだに放たれた香りで朝の部屋にはディオレサンスがゆるく漂っている。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

page top