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Column/惑生探訪記

映像オペラ マシュー・バーニー「RIVER OF FUNDAMENT」

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大阪の中央公会堂でマシュー・バーニーの映像オペラ『RIVER OF FUNDAMENT』の上映があった。マシュー・バーニー作品は2002年に『クレマスター』シリーズ5作連続上演を見る機会があった。その時も映画館ではなく劇場で上映された。昼の12時から始まって、見終わると夜8時過ぎ。上映の長さだけでなく、大画面で繰り広げられる高濃度のイメージを摂取し続けた果てのグロッキーだった。あらゆる意味で適度も適量もはるかに超えていた。けれど受け取りきれなさを体感した経験は忘れ難く、当時のチラシもまだ持っている。

今回も上演時間は途中休憩を挟んで6時間ある。前日はしっかり寝て、休憩中に食べるパンも買い込んで万全な態勢で臨んだ。
中央公会堂の中に初めて入った。ネオルネッサンス様式の重厚な外観に劣らず、屋内も金色のプロセニアムアーチの舞台が豪華で、スクリーンは舞台上に設置されている。マシュー・バーニー作品に似合うだろうと始まる前から心躍った。公会堂は大阪の商人、岩本栄之助の大阪市への惜しみない寄付によって建設された。渡米した際にアメリカ大都市の公共施設の立派さを知り、富豪が慈善事業に寄付をする習慣に感化されたという。しかし栄之助はあるとき株で莫大な損失を出してしまう。寄付した財産を少しでも返してもらうよう周囲から勧められたが、大阪商人の恥だと聞かず39歳でピストル自殺。公会堂はその2年後の1918年に完成した。現在は重要文化財となっている。

上映は舞台上の赤い天鵞絨の幕があがるところから始まる。
『RIVER OF FUNDAMENT』は三部構成で、1幕ロサンゼルス、2幕デトロイト、3幕ニューヨークとアメリカの3都市を主な舞台として物語は展開する。原作はノーマン・メイラーの小説『Ancient Evenimgs』。読んでみたいけれど、日本語訳が出ていない。11年がかりで書き上げられた古代エジプト神話に基づく死者が3度の転生を試みる物語らしい。『RIVER OF FUNDAMENT』はマシュー・バーニーと音楽家ジョナサン・ペプラーの共同名義で、映像オペラというだけあって音楽や歌がふんだんに入ってくる。私は音楽に詳しくないけれど、シーンごとに現れる歌い手は、いくつかのアメリカ先住民の伝統的な歌唱法で歌っているのではないかと思う。西洋楽器と共に楽器ではない物音も演奏に重なり、音楽はどのシーンも価値観の異なる音を引き合わせてポリフォニックに構成される。その混成の加減が魅力的だった。

ノーマン・メイラーといえば、以前ウースターグループによる演劇『タウンホール事件』で少し書いた。『タウンホール事件』では、メイラーの著書『性の囚人』に対し反感を持ったフェミニストたちと白熱する討論を展開するドキュメンタリー映像が劇中に流れる。メイラーは、暴力は男性生得の心理特性であるため、当然力を行使してよく、男が優位に立つことと快楽はわかち難いと主張する。1970年代、ウーマンリブの勢いの中で女性たちの批判対象だった。たしかに『タウンホール事件』で見た映像の印象は、フェミニストたちの意見を高圧的態度で論破しようとするいけすかないおっさんだった。メイラーは過去に『クレマスター2』に出演もしている。マシュー・バーニー作品から感じるものはステレオタイプなマチズモではないけれど、stemという語に宿る有機性と共に、境界を能動的に侵犯する暴力性を感じる部分はある。

『RIVER OF FUNDAMENT』はメイラーの通夜のシーンから物語が始まる。この撮影のために精巧に再現されたメイラー自宅に文化人、文学界の友人が集まり、故人にまつわる思い出を語り合っている。家の地下には水路があり、それは死者が必ず渡るという糞尿の川につながっている。その川を超えなければ新たな生命を得られない。メイラーの魂も新たな生を得るために川を渡っている。途中で精霊に導かれ、通夜の席に上がってくる。弔問客にその姿は見えない。物語はメイラーの転生と同時に古代エジプト神話のオシリスとセトの兄弟の争いが重なって進行する。
オシリスが自分の妻に手を出したことに怒った弟のセトは、オシリスを騙し棺桶に入れてナイル川に流してしまう。映像ではオシリスは、棺桶の代わりに金色の車に密閉されてデトロイト川に流される。オシリスの妻であるイシスは流されたオシリスを探し、柱となった棺を発見してエジプトに持ち帰る。しかしセトに見つかり柱は14分割され、ばら撒かれる。イシスは再び捜索の旅に出て、バラバラになったオシリスの遺体を集めてつなぎ合わせ、復活させる。しかし生殖器だけが見つからず、他人のものを代用したため復活は不完全で、オシリスは冥界の王となった。このくだりは、デトロイト川から引き上げられた車が14分割されて溶鉱炉で溶かされ、巨大な鉄の生命樹、ジェド柱として蘇る、となっていた。溶鉱炉のシーンでは、実際に解体され、鉄くずになった車を火花散る溶鉱炉に投げ込んで溶かしている。

マシュー・バーニーの作品には荘厳なもの、ラグジュアリーなもの、人によっては生理的に嫌悪感を催すであろうものも並列に、躊躇なく映し出される。世の規制など大したことではないと言うように。死骸、汚物、臓物、性器、日常では隠されているそれらが規制と管理の外に放り出される。神話の世界では倫理観の外で物事が動くけれど、原初の世界のカオスやグロテスクと、現代の風景や社会が接近して危うい境界が露出する。生につきまとう腐臭や死臭が脱臭されないまま、むしろ濃厚に漂ってくる。
一幕ごとに20分の休憩が入るのですぐ外に出て、目の前の土佐堀川に視聴覚を放ってリフレッシュをはかるが、淀んだ水が劇中の糞尿の川と繋がって見えてくる。パンをかじりつつ、通夜のシーンで供される晩餐にあしらわれた蛆虫のことを思い出す。

作品のテーマとなっている川、水銀、体液、車の流れるフリーウェイ、溶鉱炉から流れ出る鉄、流転。大掛かりで壮大なシーンも屋内の通夜のシーンも、画面に映る現象のひとつひとつが高密度で、ぼんやり眺めている隙がない。物語の内容はメイラーの物語と神話が混雑しながら進む上、古代エジプト神話のあらすじを知らないと何をやっているのか、なぜセトがホルスの精液のかかったレタスを貪り食っているのか、などまったくわからないこともある。
けれど物語が追えないことはほとんど問題にならない。行為の理由がわからなくても、細部に宿るディテールを目の当たりにする時間で感覚的に満ちてしまうのだった。満ちるどころか溢れるように、視覚以外の感覚器官にイメージが浸透し身体的にざわつく。鑑賞は体験に引きずり出される。これほど強靭な物語と現象と表象の交差、その連続を私はやはり他に知らない。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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