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Column / 惑生探査記

荷づくり

nizukuri

12月になったと思ったら次の瞬間にはきっともう大晦日、というくらいに疾走の予感が既にしている師走。

引っ越しの準備をしている。荷造りをしたことのある人なら誰でも「押入れの奥に眠っている捨てることの出来ないものが入ったままの段ボールから発掘される種々の思い出」という罠にかかって片付けがはかどらない経験があるに違いない。
それほど思い入れがあるわけでもない捨てそびれた微妙なものも出てくる。何かが漏れ出して白く結晶している乾電池、ほとんど使っていない伸びはじめの髪の根元を染めるスプレー式のブリーチ剤、何のために買ったのか思い出せないチョーク1ダース、デジタルメトロノーム、白い印画紙の束、硯、1人暮らしを始めたばかりの頃うれしくて集めていた電気料金の感熱紙。
けれど時間を取られるのはやっぱり日記、写真、手紙。
日記をめくって数年前の今頃は、雨上がり、イチョウ並木の黄色い道を、自転車で派手に滑ってこけていた。濡れたイチョウはバナナの皮なみに滑る。
フィルムで撮らなくなってからはちゃんとアルバムにもしなくなって、気まぐれにプリントされた写真があちこちからぱらぱら出てくる。写っている数年前の紅葉、縁の遠退いた、名前の思い出せない人、死んだ人、死んだ犬、死んだ猫、パーマをかけていた私、前髪のあった私。
手紙を読んで捨てていく。
10年以上前にもらった丁寧なアドバイスは今も有効だったり、絵のうまい友達の手紙は挿絵に気合いが入り過ぎていてまたしても捨てられない。
書き損じの文章を消したのがそのままというか、普通は下書きみたいなものを送ってきた人がいた。手紙はある程度残しておかれることを想定するから後に読まれることがあっても恥ずかしくないように書いてしまう。手紙の心意気でメールを送るときは何度も消しては並び替え、筆跡はゴシック体に整えてもらって手の痕跡は見えない。フォントの背後に私は見え隠れしている。けれどその手紙はまるで全部が素っ裸で、その人物のどうしようもなさそのもので、数年経過してもなお読むと動かされる。別にラブレターでも何でもなく、感動的なことは何も書いてない近況報告なのに動かされる。それもまた箱にしまった。
そんな捨てられない手紙を誰かに送れたことがあるだろうか。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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