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Column / 惑生探査記

寝つきの悪い子供の思いで

netsuki

その頃3歳下の妹はまだ産まれていなかったから、これは3歳より前の記憶ということになる。私は寝つきが悪かった。
当時住んでいたのは社宅のアパートの二階で、南側の青いカーペットを敷いた六畳間に布団を敷いて父私母の並びで川の字で寝ていた。六畳間の横には木目調の床の台所と居間があり、その先の三段だけの階段を上がると短い通路になっていて、左の壁面にトイレ、右に脱衣所とお風呂、さらに進むと左側に玄関があって、いちばん奥の突き当たりにもう一部屋、母の嫁入り道具の鏡台が置いてあるくらいで特に何もない六畳間があった。

ある夏の夜、雷の音で目が覚めた。豆電球の暗い部屋が時々かっと光り、雨音とごう音が窓ガラスの境界を犯す勢いで響く。暗いというだけですでに夜はこわかったからそんな夜はもちろんこわい。こわいと思って横にいる母にすがりつこうとしたら母がいない。寝返ると反対側の父もいない。タオルケットから上半身を起こす。居間も電気が消えていてふたりの姿はなかった。
廊下の先に明かりが見えた。いちばん奥の部屋から漏れてきている明かりだった。ひとりではこわくて寝られない私は奥の部屋に向かう。けれどそれよりこんな嵐の夜に放っておかれていると思うと悲しさのほうが込み上げてくる。うす暗い部屋を手探りで進んで短い通路の突き当たりの部屋の前、つまりそれは玄関の横でもあって、玄関マットの上にたどり着いた。私はなぜか玄関マットが好きだった。初めて足で立ったのも玄関マットの上だった。
引き戸が少し開いている。雨音がうるさいけれど耳を澄ましても中からは話し声も物音も何も聞こえない。何かその部屋に無造作に入っていくのは子供ながらに気が引けて、しばらく玄関マットの上にいた。玄関マットの上はどんなときでもちょっと落ち着く。それがどれくらいの時間だったのかはわからない。子供の忍耐だから3分も経ってなかったかも知れない。けれど躊躇の時間があったことは覚えている。布団に戻っても眠れないし気にもなる。やっぱり部屋に入っていくしかない。それで引き戸を開けた。
父と母はいた。ふたりは並んで壁にもたれて座っていた。下着は履いていた。部屋にはなんとなく気だるい雰囲気が漂っていて、それがなんの余韻なのかわからなかったけれど何かがいつもと違うのはわかった。ただ私はそれを知らないというのはわかった。急に入ってきた私にふたりは普段のおとうさんとおかあさんが間に合わない。その頃のふたりの年を計算してみたら26、7で今の私より若かった。
私は私に隠されて立ち入れないものがふたりにはどうやらあるのを察知して、雷のなか放っておかれたことと相まって悲しくて腹が立つ。それで当たり障りのない質問をした。なんで服きてないの。母は洗濯して乾くのを待ってると答えた。それが嘘だということくらい即座にわかるし、しかも通じると思ってそう言っているのかと思うとよけい腹が立った。私は寝ている部屋に戻ってタンスから寝間着のTシャツとズボンを選んで持ってきてふたりの目の前に置いた。服はあるでしょ。父と母と私の間にどうしようもない感じがしばらく流れた。
記憶はそこで途切れている。たぶんそのあとふたりは服を着て父と母の顔を取り戻し、私を連れて布団に入り私を寝かしつけたのだろう。
この記憶は私の中で何度となく再生されていて、30年以上経った今もわりと鮮明な体感を伴って思い出せてしまう。今こうして書いてみると微笑ましい話のようでもあるのに、子供の頃の私にとってこの出来事はその後もずっと付いてまわり尾を引くひとつ屋根の下の憂鬱の始まりだった。

寝つきの悪い子供はその後も何度となくそういう場面に出くわす。
両親の仲がいいことは子供にとって幸せに違いないのにそうは思えない。これは単純で子供らしい父への好意に由来する母への嫉妬、なのだろうけれど、私にとっては縁の下に隠された根の絡んだ問題になっていた。自分が母の代わりをすることは出来ないことも知っているし、そんなことは脅威で、ただ私にはどうしても私に対して嫌なことをされているという認識になってしまい、父と母はそれをやめないしやめられない。
大体そういうことがあるのは休日の前の夜が多いので、翌日は家族で出かける予定だったりする。寝つきの悪い子は眠れない。起きて声を聞いてしまえば火の着いたように泣いて中断させ、泣き止まず手こずらせて泣いている理由も言わない、撫でようとする手は払いのける。次の日家族で出掛けても終始不機嫌だった。けれど小学校3年生くらいになるとなんとなく、私が存在していることもそれに起因しているらしいと薄々気付くようになり、自分がいること自体に逃げ場のない嫌悪感が並走するようになった。じゃあどうすれば親は悲しむだろうかと考えたりするようになる。テレビで見た。洗面所の剃刀を手首の上で引いてみる、赤くはなるけどなかなか切れない、いた、何回かなぞっていると血がにじむ、転んで膝をぎたぎたにしたことはなんどもあるけれど自分でわざとやろうとすると皮一枚でこんな痛い、くやしい痛い、痛いのでやめてほしいと体は言う、痛いくやしい。あなたたちの愛によって作られた私はあなたたちの愛のせいで死にたくなるのをどうしたらいいですか。タイムマシンで当時の私に会いに行き、そんな思い詰めることないアイス食べようアイスと言っても聞き入れてもらえないほど切実な問題だった時期がある。

コンドームがどのゴミ箱に捨てられるのかを知っていた。ティッシュの案外重たい団子状をひらいていくと徐々にべたべたして真ん中から伸びて死んだようになった黄みどり色の抜けがらがあらわれる。魚類の生ぐさいのとも違う生っぽいにおいは嫌なにおいじゃない、すごく知ってる感じと全然知らない感じの混ざった未知の芋、生きものの高濃度で体になる前はみんなそういう流出液体。ほら液体にもすでに体が仕組まれて、あるいはティッシュに吸われていたかも知れないその方がよかったかも知れない私はどうしてここにいてこういうことを考えなければいけないこの形、体にいることになってしまっているのか本当に意味がわからない。

隠そうとされるものに対してはたらく無駄な過敏さは厄介で、使用済みが発見されるのだから使用前の隠し場所もわかってしまう。1ダースが3箱まとめ買いされていたのを見つけ、それから数日学校に通いながら教科書をひらいては国語の時間も算数の時間もどうしようかと考えていた。
ある日学校から帰って隠し場所から薬局の茶色い紙袋のまま、さらにその上からスーパーのレジ袋に入れて3箱をリュックに背負って遊びに行くと言って出かけた。それでそのままいちばんよく行く公園の金網でできたゴミ箱に捨てた。ブランコにゆられ時間を潰して平行を目指し最大限に漕いで酔って飽きて夕方家に帰った。
3ダースこつ然となくなったことは夫婦のあいだでどう話されただろう。犯人が私だとわかっていてもそれを私に直接咎めることができないとわかっていながら母が作るハンバーグ等を食べて大きくなった。
一度怒った母がこの子は一度病院に連れて行くと口走ったことがあって、それを聞いてやっぱり母はいくら自分の娘だからって何もかも許せるのではなくて、私の所業に耐えているのだと思った。そのくせ私は蛍の墓を見ればもしあんなふうに母が死んでしまったらどうしようと母にしがみついて泣きながら寝たりする。

もちろんゴミ箱を漁るようなことばかりやって子供の頃を過ごしたのではなく、一輪車を乗りこなすことに夢中だったり、学級委員をやったり、あまりにきれいなホログラムの折り紙を友達の机から盗んだり、児童館で裸足のゲンを読んで人類は早く滅んだほうがいいと思ったり、卓球したり、ひな祭りの給食にだけ出てくる菱形の三色ゼリーを心待ちにしている、要するに子供だった。
中学にあがってからは意識が家の外に向かって、そういうこともしなくなった。
私は今両親が好きであるし、感謝している。

忘れていいようなちょっとした出来事を執拗にくり返し、反芻するうちに強化されたエピソードは記憶の中で誇張されやがてそれが骨になる。そうなってしまったことをもう引き受けて動悸するしかない。例えばこんなふうに書いたり、描いたり何事かをする必要は、自然な心臓の動きだけに任せておいても見つからなかったりする。動機というのは記憶から揺さぶり起こして造り上げる致し方なさを含んだある種のフィクションで、表現されるもの自体への創意工夫の前にどのような動機を持ち得るかがその大部分にかかってくるように思う。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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