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Column/惑生探訪記

映画「寝ても覚めても」

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今まで観た濱口竜介監督作品で印象に焼き付いているのは『PASSION』という監督の藝大終了作品だった。映画を観てあまり泣いたりしない方だが、この映画に限っては嗚咽しながら泣いた。人それぞれの儘ならないならないものが徐々に露わになり、そのどうしようもなさが骨伝導のように伝わってきて揺さぶられた。物語がなければ描けないものの力が直に伝わってくる映画だった。

『寝ても覚めても』は柴崎友香の小説を映画化した作品で、濱口監督の商業映画初作品である。
あらすじ。主人公の朝子にはかつて朝子が運命的な恋に落ちた恋人、麦がいた。風来坊の麦はある日何も告げず朝子の前から姿を消す。数年後、朝子は麦とそっくりなサラリーマンの亮平に出会う。朝子は麦と見紛うが別人であった。それから朝子は亮平が気になりつつも避けて暮らし、そんな朝子のことが亮平も気にかかり、戸惑いながらも惹かれあっていく。やがてふたりは仲を深めるが、朝子はある日麦がテレビに出る人気俳優になっていることを知って…というふう。
映画を観る前にこのあらすじを読んだとき、なんだか少女漫画にありそうな設定だけれど、映画にしておもしろいのだろうかと思った。と同時にこの通俗的な設定をどうおもしろく撮るのだろうという興味が湧いた。

冒頭、朝子と麦の「運命的な」出会いのシーンがある。偶然に麦の姿を見とめた朝子の感覚を原作の小説では「彼の全部を、わたしの目は一度に見た」と書いている。原作と映画では出会いのシーンは違っているけれど、「彼の全部を、わたしの目は一度に見た」という恋の落ち方で、映画での出会いの表現があまりに非現実的ドラマチックさで、若干不安な気持ちになった。設定はフィクションでも風景は確実に大阪とわかるランドマークで、見知った風景が映ったせいもあるけれど、現実世界とのコントラストが強すぎるように思え、そんな出会いあるかい!とつっこみたくなる感じだった。この「運命的」が記号的に表現されている意図は、物語が進む上でどう消化されていくのだろうと違和感を持ったまま続きを観た。

麦の失踪後、数年が経過して朝子は東京のオフィス街の喫茶店でバイトをしていた。ある日、近くの会社にコーヒーを届けに行って、大阪から移動してきたばかりの亮平と出会う。「ただまっすぐに立ったその人の、全部を、わたしは見た」亮平は麦そっくりの別人だった。その出会い方は麦との出会いとは全く違う日常的な一場面で、出会いのショックは麦のときと似ているが、麦のと出会いのシチュエーションを思い返すと、その落差によってようやくあの冒頭のドラマティックさがおもしろく感じられた。
映画では麦と亮平が同じ俳優によって演じられる。雰囲気を変えて演じ分けられているが、実際同一人物だということが映画を観る方には当然認知されているし、演じるということに視点をおいて見ると、演じ分けの巧みさをエンターテイメントとして、また同じ「顔」の中身を変えて別人とする、という演技の形式をやや映画の外から眺めて色々考えることもできる。

映画を観てから原作を読んだのだけれど、原作でおもしかったのは、読み進めると語り手である朝子の思い込みによって、麦と亮平は「そっくり」な人物として錯覚されている可能性があると周囲の人物とのやりとりからほのめかされてくるところ。運命的な恋は盲目フィルター越しの世界を、朝子の目を借りて見ている感覚になる。朝子は過ちと見える選択にも筋が通らない要求にも躊躇がない。そうなのだから仕方がないという原動力で、赴くままに動いてしまう。その点では映画での朝子の描かれ方も同じで、傍目にはふわっとしていて、自分の意思で物事を決めて遂行するタイプに見えないけれど、実はかなりエゴイスティックな人物である。

原作にはなくて映画の中で登場する設定もいくつかあって、特徴的だったのは震災との関わりについてだった。原作でも地震があったということは書かれているが、詳細には触れられていない。映画では被災地と復興後の風景が何度か映り、震災自体が登場人物の人生ともう少し深く関わってくる。そのシーンを見ながら、濱口監督が震災後に東北でドキュメンタリー映画を撮っていることも思い出された。ドキュメンタリー映画の記録として残されるだけでなく、映画のワンシーンとしてアーカイブされる風景。商業映画として物語を遂行すると同時に、現在の日本に住む人物を描こうとするときに監督がまなざすものも綿密に編み込まれている。

映画の中では朝子と麦の出会いから8年の月日が流れる。
朝子は亮平と出会いはするけれど、ずっとどこかで麦を待っている。だから朝子は変わらない。周りの友人たちは、整形したり結婚したり続けてきたことを辞めて子供を産んだり、それなりに変化している。原作にはなかったことでもうひとつ印象的だったのは、友人のひとりが8年の間にALSという難病を患っていたことだった。ALSは体の筋力が徐々に落ちていき、最終的には自分で動くことが出来なくなる。進行すると呼吸筋が動かなくなり、やがて自発呼吸が出来なくなる。それはつまり死を意味する。その時が訪れる前に気管切開をして人工呼吸器を着けるか否かを患者は選ぶことができるけれど、彼は気管切開をして自宅で生活していた。映画のなかでそこに至るまでの彼の経緯は語られない。けれど見えてくることは、彼はただ病に臥せっているのではなく、意思によって選んで生きているということだった。
『寝ても覚めても』は恋愛主体の物語のようだけれど、ベースにあるのは意思によって選び取ること、到底受け入れられないものと共存すること、そのなかで孕まれる正解のない問いに向かって開かれた映画であると感じた。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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