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Column/ 惑生探査記

未定流れ星 予定流れ星

nagareboshi

流れ星まで人工的に流せるようになりつつあるらしい。
そうなるとある程度ねらったタイミングで流れ星を出現させることが可能になるのだろう。これまで人生で数回流れ星を見たときのことを思い返すと、見ようと思って夜空を眺めていた訳ではなくて、何か別のことで夜空を眺めていたら視界にたまたま入ったのだった。
流れ星を見たときの喜びの大半は不意に訪れたというその偶然性が担っている。ねらって流される流れ星というのはどちらかというと流しそうめん、打上げ花火の一種のように思われる。それはそれで楽しいかも知れないけれど、待っていれば来るとわかっているものをベストな位置で待ち受けるよりも、思わぬ場所で不意に訪れたものに偶然出くわすほうがおもしろいに決まっている。
おもしろいものが多い方がいい。じゃあ不意に訪れるもの、偶然にどうすればより多く巡り会えるだろうかと考えた。まずそれをこっちからあまりに求めすぎてはいけない。かといって求めなさすぎてもいけない。偶然を期待するときはただただぼーっと待っているのではだめで、待ち方のコツらしきものがあるように思う。神頼みのような委ね方ではなくて、意識に何かをうっすら蒔いたり仕掛けたりする必要がある。うっすら。収穫や獲物を期待せず、初期衝動のままの静かな引力を帯びている感じで。偶然のための構えと呼ばないような構えがいる。見ようとせずに全体をながめる視野で、弛み過ぎない力の抜き方を維持する芯がいる。背骨は生まれた時からあるけれど、そういう芯として作り替えなければならない。偶然はいつも流れ星みたいに降ってくるように出現する訳ではなく、むしろ見慣れてしまったものの既視感を積極的に解除した目でいつもの通り道を歩きながら見えるものだったりする。ある瞬間何気ない隙間に日が差したときの影の具合や形だったり、向かいで信号待ちをしているたまたま並んだ人たちの立ち位置や服の色だったり、その背景の雲だったり、真横で信号を待っている人たちの会話のなかのひと言だったり、青信号になってすれ違った男の人の柔軟剤のにおいだったりする。私がここで偶然と呼んでいるものは、私に向かって矢印の向いていない、意図の外側にあるもので、そこからいかに受信できるかということだと今書きながら気が付いた。
出来るだけ多くの偶然に出くわすためには、知覚をゆるく広げて、あとは放っておいたら、向こうの方からやってくる。そういう穴のようなものに、なれないけれど憧れる。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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