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Column/惑生探訪記

KUNIO14『水の駅』

mizunoeki

『水の駅』は1981年に転形劇場によって初演された演劇作品で、今回演出家の杉原邦生によって再演された。『水の駅』は上演中俳優が一度も言葉を発することのない、沈黙劇と呼ばれるかたちで上演される。最近では三年前にインドの演出家シャンカル・ヴェンカーテシュワランによってインドのキャストで上演され好評を博したが、私はそれを見逃している。戯曲自体を読んだのは十年以上前のことで、上演は転形劇場の記録映像しか見たことがなかった。

この作品を最もシンプルに説明すると、舞台中央にある壊れた蛇口から水がちょろちょろ流れていて、そこに人々が訪れて水に触れては去っていく、ということに尽きる。なので観客は一時間五十分蛇口のところにやってくる人々の姿を眺めている。例えば冒頭のシーンでは少女がひとりやってきて、赤いコップに水を受けて飲む。その次は荷物を背負った男がふたり、蛇口に口をつけて吸うように水を飲む。
演劇というと、俳優の演技によって展開する物語を受け取るというイメージが一般的であると思うけれど、そういう演劇を見ている時とは質の違った時間が流れていく。蛇口のところにやってくる人々はどこか水辺を求めてやってきた動物のようでもある。どこの誰で何をしている人物であるのかは判然としない。「どこの誰」よりもう少し手前の「人の姿」として現れてくるように見える。そうして上演される演劇は、おのずと物語よりも舞台上で起こる出来事ひとつひとつが際立って見えてくる。終始細く流れ続ける水音が耳に残る。
『水の駅』の戯曲には俳優たちに台詞として書かれた言葉はないけれど、一連の行動が記されている。例えば冒頭の少女があらわれるシーンでは以下のように書かれている。

少女が
一人
薄い光の中
バスケットを手に
歩いてくる

小さな坂の途中
少女の足が ふと止まる
 
歩いている 少女の背中

歩いている 少女の背中
ねじれる首
やってきた道へ
遠い広がりへ 向く首

こういう書かれ方の行動の指示と、詩の引用や小説、戯曲、絵の引用をして登場人物の行動や意識を間接的に限定することでそれぞれの状態は引き出されていった、と戯曲のことわり書きにはある。
起承転結の流れを物語ることや、台詞に含まれる意味や感情を表すことに身体を動員させなくていい分、俳優に要求されるのは、客観的な視点で書かれた行動をトレースすることから姿を醸造し、如何に劇の時間を身をもって生きるかにかかってくる。それにはいわゆる演技力だけではない身体へのきめ細かな集中力と、各々の演劇的佇まいを獲得する必要がある。

今回初めて実際の上演を見て、これは人を露わにしてしまう戯曲なのだとつくづく思った。俳優その人のそれまで生きてきた時間に培われた姿が、否応なく露わになる。単に演技の技術的な問題だけでなく、呼吸や血流と共に所作のテンポを作らなければ動きは単なる動作をなぞることにしかならず、むしろ戯曲に記された改行や一文字空けを読み取り、空白を満たす身体の時間を保たねばならない。
戯曲に書かれた行動の指示は人物の内面まで語らず、あくまでも外から見た動きのみに留め置かれ、詩的な言葉は抑制されているけれど、読んでいくと詩の律動を持っていることに気づく。戯曲の言葉はそれ自身では完結しない鍵として作られた、舞踊の型や楽譜のような機能を持つ。書かれた行動を腑に落とし、引用イメージ等を同居させながら内面を満たしていくのは演出と俳優の作業になる。そう考えると、台詞を発する演劇も同じように言葉から様態を探り当てていくのだから、同じような気もしてくるけれど決定的に違うのは、台詞に要約できないものを身の内に運ぶ俳優が、とにかく上演時間において一挙手一投足の在りようにこだわり、劇の時間にディテールを浸透させることができること、演劇に奉仕しない身体が演劇のなかに立ち表れるということではないだろうか。それを十全に演じるのは容易ではない。それでも静かに劇的に露わになる裸形を、太田省吾が演劇において探した痕跡を再演のなかで嗅ぎ取ることができた。

また、荷物と共に現れては去る、壊れた蛇口、舞台奥に捨てられた物の山などから、住むところを追われた人々の様子が想起され、震災後の状況が呼び起こされる部分もあった。
公演を見た数日後に今後数十年の内に世界規模の水不足が予想されるというニュースを見た。水を、湯水のように使えなくなる時代がそのうち来ると言われている。そして水道民営化のことも頭にちらつく。
いずれにせよ、今はまだ当たり前のように蛇口をひねれば出る水が、やがて切実な問題として生活に迫ってくることは間違いないらしい。水という生命にとって不可欠で普遍的なモチーフが軸になる作品であるから、世界の様相が映り込む余地も多分にある。これから先の世界で『水の駅』を再演するということは、強力な現実的意味を持ってしまうのではないだろうか。

——

[追記]
コラムを読んだ方から水の駅には「上演台本」と「記録のための台本」があると教えていただいた。戯曲集に載っているのは後者の方である。私が文中に引いた台本は、初演時の上演形態が出来上がってから改めて書かれた「記録のための台本」であり、「上演台本」は行動の指示が書かれているのではなく、演じる手がかりとなる図版などの資料と言葉が集められたものであるという。今回の再演は「上演台本」を用いられていたらしい。なので実際は文中で考察していることとは異なるアプローチから劇は立ち上げられている。しかし私は「記録としての台本」から上演が為されたと見ても違和感を覚えなかった。
『水の駅』は具体的な行動の指示の手がかりのないところから毎回獲得された俳優個々のフォームで演じられるということである。そうであれば、もっとこれが再演と呼ばれるのかどうか、というありようの身体が立ち表れる可能性はなかったのだろうか、本質的に『水の駅』を再演するとはそういうことなんじゃないだろうか、と観客としてはますます欲深く思うのだった。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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