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Column/ 惑生探査記

蟷螂(これでカマキリと読むらしい)

kamakiri

どうもこの蟷螂という字を見ていてもカマキリと読めず、カマキリの姿に繋がらない。つまりカマキリを表すのに蟷螂があてがわれていることでイメージが阻害されノイズが混ざる。字面から受ける違和感を通過する度に、この蟷螂という記号からあのカマキリを、ただ読むよりも積極的に出現させなければならない。

前に見たのはいつだったか思い出せないくらい久々に蟷螂を見た。
ベランダに置いてある日差しに音を上げそうなクリスマスローズにとまっていた。5センチくらいでまだ鎌も小さい。
蟷螂の卵は木の枝につくムースの泡のようなやつで、泡の中から溢れるように孵化する。小学生の頃、3センチくらいの子蟷螂を捕まえて筆箱のなかで飼っていた。飼っているといっても食べものがわからないので、朝捕まえてその日の夕方には花壇にかえしていた。授業中は筆箱のフタを半開きにして様子を伺い、時々見つからないようにノートの上を散歩させた。鉛色の字のうえをそれより細い4本足の翡翠色が通過する。
蟷螂も大人になると簡単に手を出せない迫力を帯びる。放課後運動場で、バケツに少し水をはったところに立派な蟷螂が1匹放してあった。男子がすごいことが起こるから見とけというので見ていたら、しばらくしてお尻の方から黒い針金みたいなものがにょろにょろ出てきた。得体が知れないし、細長くてにょろにょろしたものは大概気持ちが悪い。
これは寄生虫で、こいつが出て行ったら蟷螂は死んでしまうんやぞ、と男子は説明した。この寄生虫は水に浸かると出てくるそうで、時期が来ると蟷螂を内側から操って水辺に向かわせ脱出するらしい。寄生虫は蟷螂の全長と変わらないくらいの長さで、宿主の中にいるのにほとんど変わらない大きさであることも脅威だった。蟷螂には寄生虫を追い出す術がなく、そんなものが自分の中に存在することも知らないで生きている。
その時、蟷螂は本当に蟷螂なのだろうかと思った。寄生虫に動かされている外側なんじゃないか。ゆるぎなくそれと見えていた生き物の中に、見えない生き物が平然と生きている、ということがある。プールびらきの前にぎょう虫検査というのがあったけれど、そういう自分以外の生き物が自分の中にもいる可能性を示唆されたこともあって、もしかすると私も別の何かに動かされている外側なんじゃないかと疑った。
もう少し後になって体というもの自体、細胞の寄せ集まりで、体内にはいろんな菌も住んでいるらしいことを知った。例えば右唇の上にはヘルペス菌がいつからかずっと身を潜めていて、体調を崩したりすると表面にあらわれる。そういうものが感知していないおびただしさでいるのだろう。見えないけれどいるものが。
良いものも悪いものも含めていろんなものが住んでいる集合住宅のような場所が体である。それなら私の思うことや考えることに、住人の及ぼす影響がまったくないと考える方が不自然ではないか。健康であるとき、病を得たとき、体の状態によって物事の感じ方も変わる。
私が思うとか考えるということは、純然たる私の思考という訳ではなく、集合体の意向と欲望の総和かも知れない。だから何かに思い悩んだときには、まず私に耳を貸すように居る、というふうにしてみる。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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