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Column/惑生探訪記

堀川御池ギャラリー「いんぷっと/あうとぷっと」

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京都市内の障害者福祉施設、総合支援学校等のアート制作の巡回相談、支援事業等で見出されたアーティストの作品展「いんぷっと/あうとぷっと」が堀川御池ギャラリーにて開催された。
アウトサイダーアートの展覧会はこれまでにも何度か見たことはあった。単に既存の技法を習得し、習熟するのとは違う仕方とこだわりによって制作された痕跡を目の当たりにするのだけれど、その度ビビッドな各々の作風、不意を突かれるような着目点、集中力に驚かされる。そこには健常者基準の「よくできました」を絶句させる力がある。「よく」「できる」とは何か。この絶句の先にもう少し分入ってみる必要があるのではないか。

今回の展示の特徴は、それぞれの作品制作のきっかけとなったもの、例えばyoutubeの動画、雑誌の図版などが「インプット」としてキャプションに明示されていること、そして作品のほとんどは販売可能となっていたことが挙げられる。展示室は1階と2階、3室に渡り、作品点数も多く、平面、立体とバラエティーに富んでいた。印象的だったいくつかの作品について触れてみる。
井上美喜子の絵は、ナショナルジオグラフィックの人物写真をもとに描かれていて、写真と絵が並べて展示されている。作家は写真を選び、紙とクレパスを手にそれを写す。そのとき行われる変換作業を想像する。肌やシャツの色が塗り込まれていくが、人物だけが描かれ、背景は描かれない。作家はただやみくもに写真を写しているのでなく、モチーフとして作画に必要な部分を抽出している。つまり描くと同時に何かを「描かない」ことも選択されている。それは明確な創意である。描かれた『イエメンの人』や『ケニアの女の人』は写真とは異なる白い抽象空間の中に引き出された人物画として完成している。写真をもとに絵を描くときに、写真とは異なる描画としての魅力に達することは、簡単なことではないのだけれど、それが成し遂げられている。
大柳憲一の作品は、フォントサイズで言えば15ptくらいのおびただしい数字の羅列でケッチブックが埋め尽くされている。色とりどりのカラーペンなどで隙間なく用紙全体が数字なのだが、閉じたまま積まれたスケッチブックもどうやら同じように描き込まれている。ギャラリーに持ち込まれた分だけでなく、作品はまだまだあるらしい。今回の展示にあたり、作品タイトルをどうするか作家と相談したところ、彼の書き続けていた数字が『車体ナンバー』であることが初めてわかったという。
木村康一の『妖怪』シリーズは水木しげるの妖怪をインプットとした、妖怪の鉛筆デッサンと粘土で立体化された妖怪のバリエーションが並ぶ。水木しげるがインプットと言っても、ゲゲゲの鬼太郎のようなキャラクター的なものでなく、妖怪はどれもかなり複雑な形態をしていて、土着的な印象があり、某国の原住民が呪術の際に使用したと言われれば信じただろう。先月までやっていた国立民族学博物館の特別展『驚異と怪異—想像界の生きものたち』に出展されていたらよかった。人類が共通に不気味や畏怖を感じる形態の普遍性に達しているように思われた。

セロテープを長く切ってくるくる丸めて立てたものをたくさん並べた石原寛子の立体作品。一畳程のベニヤ板の上に半透明の筒が群生する平原のようで、セロテープには所々淡い色がついている。セロテープは一度本人の腕に伸ばして貼られ、丸められるらしい。着色は、指にクレパスをつけてセロテープに色付けしている。貼る/剥がすという皮膚感覚を伴った独自の技法でもって制作されている。一度体に貼って剥がすということは、テープに皮脂が付着するので、皮膚の転写でもある。そうして見れば、もれなく作家の体に貼り付き剥離する過程を経ている素材の群生は、独自の生殖方法によって生み落とされた産物のようであり、ひそやかなエロティシズムを感じさせる。
ただ、このように作品を見る目を介在させなければ、セロテープの群生はゴミとして捨てられてしまう。ひたすらセロテープを引き出し丸める行為は「問題行動」であり、もったいないから止めましょう、となる。もちろん支援学校などの現場では、日々の学校生活を運営するだけでも手一杯で、創作物を残すべきか否かと、逐一吟味して判断できる人材も余裕も十分にはない状況は想像できるし、それを非難することもできない。

けれど、表現されたものがすぐれた作品であれば、現代アートと対等な場で語られるようにしていかなければならない。障害のあるなしに関わらず、素晴らしい作品が相応に評価されないことは、美術に関わる者として許せないと、美術家でありこの展覧会の企画に携わるNPO法人障碍者芸術推進研究機構プログラムディレクターの伊東宣明は語る。
たしかにアウトサイダーアートとして、そのカテゴリーの内でしか眺められないのは惜しい作品が多くあった。画材、素材、モチーフといった創作のきっかけと、作家の身体性が合致し反映された作品には、生体のリズムと躍動が宿る。教えられて身に付いたものより「そうなってしまう体」が圧倒的に優勢で、痕跡には生(き)のままが息づいている。それは見ている方にも影響するので、私はよい作品を見ると自分の体も動きたがるのを感じる。修練された技法やコンセプトでもって作品を構築する画家、美術家の仕事がある一方で、それとは異なる道筋の作品も世界には必要であり、また得難いものである。
障害者であれ健常者であれ、作品とは個によって表出された世界の様相である。具象であれ抽象であれ、個々が世界から受け取るものが鮮明にアウトプットされることが重要である。だから外部から為すべきことは方法の指導よりも、素材、画材、創作の場の提供、こういった展示の機会を作ること、そして絶句の先に作品に対する言葉を育むことではないだろうか。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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