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Column/惑生探訪記

映画「イマジン」

IMAGINE

例えば色を見たことがない人に赤色を説明しようとする。

「えーと、赤というのは血の色で、だからどういう人でも体の中ってほぼ赤いんですけど、でも表面は赤じゃなくて肌色で、肌の色は人によって微妙に違ってます。体ってあったかいじゃないですか、それは血がかよってるからで、つまり赤はあったかい、別にあったかくないトマトとかも赤いんですけど、だからあくまでもあったかいっていうのは赤のイメージで、必ずしも赤いものが温いわけでなく、でも怒って顔を真っ赤にするとか、恥ずかしさに顔を赤らめるとか、カーッと体温が上がったときにそう言ったりもします」

こういう説明で伝わるのは赤の周辺で、赤という色そのものではない。言葉の情報で赤をどうにか赤に染めようとするけれど、いくら言葉を尽くしても、見えている赤という色をそのまま伝えることはできない。物体にはそれぞれ異なる色がある、という場合の世界を私は当然のものとして受け取ってきた。
目を閉じて周囲のものに触れてみると、形状の特にフチや材質がいつもより鮮明に感じられる。冷えた炭酸水の入ったグラスを触ると、水が入っているところと入っていないところの温度差に量を感じ、発砲する音も立体的に聞こえる。普段見ることで捕捉している情報とはキャッチの仕方が変わることはそうして少し体感できるけれど、目で見た記憶から逃れられない者にとって、いくら目を閉じてみても最初から視覚を伴わない世界の形状は未知のもので、そこにはきっと私が見ることのできない風景が存在する。

映画の舞台はリスボンの街、主人公は盲目の男女。
視覚障害者のため古い修道院に開かれた診療所で、国籍も様々な人々が集まっている。実際に視覚障害のある人たちがキャスティングされていて、こぼさないようグラスに水を注ぐ練習をするシーンでは、グラスとピッチャーの距離に迷ったり、水面を指で測りながら水を注ぐ手元が順々に映される。みんな徐々に上達していく。
男は盲目の子どもたちに、自分の出した音のはね返りで前方にある物の距離や大きさや把握する「反響定位」を教えるためにやってきた。それである程度周囲の環境を把握することができる。男は白杖を使わずに路面電車の走る街中でもどこでも歩くことができた。タップシューズのように音のでる靴を履き、その音をよく聞いて道の段差も察知できるので、躓かずに歩くことができる。危ないと注意されても白杖を持ちたがらない。子どもたちにも杖に頼らず歩くことを教えようとするので、診療所からは咎められる。白杖がいやというよりたぶん男は、生きる方法を押し付けられるように、ルールに従って歩くのが嫌なのだ。男の隣の部屋には自室に引きこもっている盲目の女がいる。彼女は窓を開けて窓の縁に鳥の餌をパラパラと置く。窓の縁は鉄製で鳥がやって来ると足音が聞こえる。女はその音で鳥を見ている。男は女の気を引こうと、自分も同じように餌をやって鳥を招く。女はその音を聞いて、餌は何をあげているのかと尋ねる。ひまわりの種だと男は答えた。けれど実際にまいていたのは窓のそばに置かれた植木鉢の石で、鳥の足音も針金を手に持って男が叩いて出していた音だった。

女も男に興味を持つようになり、ある日ふたりで街へ出かける。杖を持たず歩く男について、通行する人々の靴音、通りすがる車やバイク、街の音を立体的に聞きながらふたりは歩き続ける。木陰で休み、男は木になっていたさくらんぼを彼女の口にすべり込ませる。最後にやってきたバーではふたりでワインを味わい、すぐ近くの港には大型客船が来るのだと話して聞かせた。
男は子どもたちの心も捉えたが、あまりに自由なふるまいに診療所の職員は不安と不信を募らせていく。ある日、警察に保護される問題を起こしたことをきっかけに解雇通告を受け、ついに男は診療所を去ることになった。女は男があんなふうに歩けたのはセンサーを持ち歩いていたからで、鳥を呼んでいたのも全て音だけだったと職員に知らされる。ふたりで出かけたときに休んだ木陰にあったのはさくらんぼの木でなく、女の口に入れたさくらんぼは、傍の露店で売っていたものだった。ワインを飲んだバーから港も近くにはないし、大型客船が本当に港に来ていたかどうかも定かではない。
つまりそれらは嘘であった。けれど果たして、嘘、というのだろうか。
男はさくらんぼの木や、実際は近くにない港を風景の中に出現させた。男が連れ出した見えている者には見えない世界は女にとって輝いていた。見えないことを不自由とせず、見えないままに世界をイメージで描くこと。それはいたずらに人を欺く嘘とは異なるすがすがしいフィクションである。女は診療所を去った男のあとを追った。
障害のあるなしに関わらず、生きていることを生きようと意志して引き寄せる力がなければフィクションは生まれない。人のあいだで、人を幸せにするために必要なのは、正直さだけでも嘘でもない、フィクションを生む創意を持つことではないか。

目に見えているものだけがありのまま正しいわけではない。視覚に限らず広い意味で「視点」を変えれば世界は違った形に見える。当たり前のようで忘れがちなそのことを「イマジン」は見えない、ということから鮮明に見せてくれた。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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