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Column/ 惑生探査記

演劇の煮こごり

nikogori

大阪心斎橋、スナックの看板が縦に連なる雑居ビル街の6階にウイングフィールドという小劇場がある。何度か行ったことはあったけれど先日、数年単位の久々に演劇を見に行った。ウイングフィールドは劇場になって今年で25周年を迎えるそうで、それ以前はオーナーの住居だったらしい。その名残というか、劇場は照明機材を吊るので天井は高いものだけれど、この劇場は天井高が一般の住居とほとんど変わらず、広さは客席数で言うと100くらい。
見に行ったのは、dracom(ドラカン)の『空腹者の弁』という公演で、まず中に入ると劇場内に観客席というものはなく、舞台も設けられていない。なにも仕込まれていないカラの劇場の好きな場所に観客は腰を下ろし、開演を待つ。観客と変わらない服装の俳優らしき人たちが観客に紛れて入ってくる。それで何かを話し始める。最初どこかに墜落した飛行機のことを話しているようだったけれど、聞いていると飛行機の話しが展開するなかで「とびきりのねり消しゴム」とか「頭の上にタコをのせてやろうかしら」などという奇妙な言葉が聞こえてきて、むしろ話しの筋よりそっちの方が気になってくる。その後会話はアクロバットを連発するようにねじれて変転をくり返し、どうやらひとつのストーリーを追って見るものではないことがわかってくる。俳優もだれそれという名前のある役を担っているのではなく、自分の順番が来た、という感じで言葉を発しているように見える。会話は具体的な意味のやりとりからはみ出した言葉の交換のようになっている。例えばどんなふうかというと、ドラカンのサイトに公開されているテキストの一部を引用する。
「もっとすばやく。 失敗すればベルトの穴を増やさないとだめだ。 海草の隙間に落ちる月の影な頃合い。 とっくの昔に死んだ人のことを話そうか。 あ、それは旅先で話すって約束だったのに。 トタン屋根に落ちる猫の死体は太陽光線を遮って。 黒マジックでそれを消そうと思ったら、意外な効果に「舟盛り」を頼むしかなかった。 そう、丸焦げ。 草履の裏に「ごくろうさん」って書いたの誰? えっ?」
というようなテキストを一行ずつ別の俳優が喋っていく。俳優はその一行を演じ渡していく。平行して途中から俳優が観客を避けながら木材を運んできて、上演中に組み立て始める。それはこの劇場が劇場になる前の、オーナーの住居だった当時の実寸の間取りで、何もなかった劇場が過去の間取りをなぞって区切られた空間に戻っていく。リビング、浴室、トイレ、リスニングルームというのもある。それらの部屋の輪郭だけがあらわれ、俳優は劇場の過去がなぞられた場所で部屋を移動しながら言葉を演じ続けている。観客も立って部屋を移動しながら好きなところからそれを見る。合間にリスニングルームからレコードの曲が流れて来たりする。レコードはオーナーの私物であったらしい。
劇場が演じ手である俳優によって劇場以前の場所に戻されていく、という行為はアイロニカルに見え、もちろんそれは舞台美術なのだけれど、何もない劇場をさらに1枚剥がした過去の間取りであって、そのあいだにフィクションの場が仕立てられていることがおもしろい。
意味をやりとりしているようで、脈絡のほぼない台詞のやりとりが会話として成立しているふうに見えるのは、俳優の発語、表情、身振りが言葉の意味でない部分を補っているからだけれど、演じることが可能な糸口が言葉の端々に残されている。このテキストは最初詩のように思えたけれど、聞いているうちにやはり戯曲として書かれ、言葉は俳優に宛てられ、当て(ぶつけ)られた台詞であると感じた。演じるということが一定の役の人格や感情描写から放たれている台詞のありように、俳優は、誰かでなくその人自身でもない「俳優」であることに軸足を置きながら、何かになりきってしまうことを寸断され続ける。まるで過去にこの劇場で話された台詞、場所の記憶を再生したコラージュのようにも見えてくる。けれどよく考えると、どういう演劇であれ台本があるならば、俳優は常に過去に書かれた言葉を再生するということをやっていることに変わりはない。
脈絡を欠いた台詞の数々は、意味に満ち過ぎて飽和し、潤滑に繋がらないという感じで、その高密度がもう可笑しくなってくる。実際笑ってしまう。それでも台詞のやりとりが耳に届くのは、俳優が息を吹き込んで聞く隙を観客に与えるからで、俳優というものの、芝居の時間を是が非でも生きようとする欲と性が抽出されて見えた。さらにベニヤの間取りが演劇感を助長して、演じられるほど素っ裸な演劇に見えてくる。手法や構造のことよりも、何より演劇を見たという感じ、演劇の煮こごりを味わったような感覚が残った。最後には観客の手を借りながら部屋の間取りはバラされて、もとの劇場に戻る。

劇場は本来、「何もない」とされる空間に別の場所や時間を仕組むことのできる場であるから、どのような場所としても上書きすることができてしまう。劇場で何を上演するか、となったときに、過去そこに住まれていたことに目を向けるような視点の持ちようがなければ、この構造は生まれなかったのではないだろうか。劇場を劇場以前に1枚剥がして劇の時間に巻き込んだことが、却ってこの上演を演劇の血の通ったものにしていたように思う。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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