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Column/ 惑生探査記

文体の歩き方

buntai

8割くらい翻訳サイトの力を借りながら英作文をしていると、この不自由な記号でしか疎通できないのかと思えてくる。
意味をもった文字配列である単語と単語をつらねてどうにか文章にする。けれどとても角張っていて、文章の伝えたい旨に含まれる質感を流し込めている感じがしない。まず表現を選べるほど語彙もなく用法も知らないので選択と工夫の余地がない。ただ代表的な記号を選んでいるといった感覚になる。使い慣れなさに当たったときに言葉の不自由は際立つけれど、普段使い慣れている母国語だって記号で、ものを考えるとき、誰かに何かを伝えたいときにもこの形式を借りている。借りものだけれど返すあてもないから、自分のもののように使っているうちに癒着してはがれなくなっている。ひらがなはそばにながれ、カタカナは遠くからいらして、漢字はちょっと苦い。用法も語彙も言いまわしも見聞きしたものの集積で、これまで生きてきた時間と共に体に織り込まれて記憶された体感を伴っている。だから記号と言いつつそのように捉えていないところもある。読むにせよ書くにせよ、私というものは言葉によって作られていると思うふしもある。なので言葉から自分を掘っていくことや変形させることもできると思っている。
誰もが180度開脚する必要がないのと同じように、日常生活を送るのに支障のない伝達手段として言葉が機能していれば、それで生きる上では困らない。けれど加齢と共に関節が軋んだり、ものの考え方が固着していくように、言葉もそれに対して意識的にならなければ放っておかれたまま硬化していく。なんにしてもある程度やわらかいほうがいい。
言葉はわかっていることや言えることのためというより、わからないことや言えないことのためにあるように思う。人と会話をするときは、交わされる言葉の意味による疎通が目的というより、言葉を交わす相手とのあいだで意味から漏れるもののやりとりをする時間を支えるものとして言葉があるように感じる。だからこそ、言葉を選ぶ。
こんなふうに読まれるものを書いたり、創作に言葉を使うときは、現実的にはいつも書けるものしか書けないということがあって、それに並走して書けないもの、書きそびれるものが無数にあるということを思う。けれどそれが書く原動力になっているということがある。書きたいことがあるのでなくて、書けないものがあるからまた書いている、ということがある。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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