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Column / 惑生探査記

17日目の人

17th

妹が産んだ肺呼吸を始めて17日目の人は、母乳を吸うための顔の筋肉が発達したのか輪郭がちょっとシャープになり、目も大きく開くようになってきた。妹は自動的に、どんどん母乳を作ることができるようになり、その量は日々増えて、出産直後は滲む程度だったのが今は湧いて出る感じになって、脇の近くにあるそれまで存在を意識することのほとんどなかった副乳まで張っているらしい。牛になったみたいと妹は言う。
牛になった妹が17日目の人と同じサイズだった頃を覚えている。病院のトイレで3歳当時の私がどこへ行くときも連れて歩いていた人参を抱えた兎のぬいぐるみ、にんじんうさぎを忘れてその後見つからず、散々泣いたことも覚えている。お姉ちゃんになるんだから我慢しなさいと言われ、なりたくてなるんじゃないと、納得いかなかった。
17日目の人はとても好ましいにおいを持っていて、近くにいると安心する。初めて病院で会ったのは産まれて半日くらいのときだった。そのときはまだ感じなかった人のにおいがしている。頭皮から妹そっくりのにおいがしている。今のところ妹から分泌される液体のみを養分にして、それ以外のものをまだ口にしていないのだから当然かも知れない。妹のにおいは父のにおいに似ていて、だから17日目の人からは父の印象も漂ってくる。脈々としたものを本人の意図しないところで漂わせている。私が産んだのではないけれど私よりも先、先端に発生した人。
自分がどんな姿をしているのかまだよく知らないのだなこの人、と思いながらうごめいている姿を見ていた。目はこっちを見ているようなときも、髪の毛の色が他の部分よりも濃い、という程度にぼんやりしか見えていないそうで、自分に接する生きものの形状も、自分がいる場所がどんなふうなのかもはっきり見えていないらしい。17日目の人にとって自分という意識がどんなふうあるのかわからないけれど、そんな茫漠としたところにぽんと置かれたらめちゃくちゃ怖いし、お腹がすいているとかおむつが気持ち悪いとかの欲求以外にも泣く理由は大いにある。
選り好みの余地なく触れてくる者を全面的に受け入れるという状態にまず置かれるところから生きものは生き始める。それは30年ばかり生きてきた地点から見ればいきなり難易度が高いし、過酷に思える。でもそれが当然のはじまりだった。体はものすごく投げ出されている。生きることは身を投げる姿勢から始まるのだと思った。つぶさには覚えていない自分も経てきた過程を、もう生きなおすことはできないけれど、なぜこんなに産まれて間もない人を見ていたくなるのかは、この世界に投げ込まれたばかりの人の姿を見ていたいからだった。さらにそこからまとわりついたものや纏ったものの集積である私の状態がはね返って見える。

嵯峨実果子
1983年京都生まれ。詩人、文筆家。 「ミことば」で平成27年度第33回 世田谷文学賞 詩部門受賞。趣味は芳香植物の栽培と観察。 mikakosaga.tumblr.com

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